Another cup of tea.


Paul Delvaux “Le Viaduc”

 

『・・・と関わっていると、マジョリティというのは何かしら信念がある集団ではないのだと感じる。マジョリティ側に生まれ落ちたゆえ自分自身と向き合う機会は少なく、ただ自分がマジョリティであるということが唯一のアイデンティティとなる。そう考えると、特に信念がない人ほど “自分が正しいと思う形に他人を正そうとする行為” に行き着くというのは、むしろ自然の摂理なのかもしれない。
オフィスの入ったビルを出ると、強張っていた身体から余計な力が抜けていった。青物横丁にある本社から打ち合わせ場所の工場までは、電車を乗り継いで四十分と少し。その間は一人でいられる。そう思うと佳道の心身は幾らか軽くなる。』

『正欲』 (朝井リョウ)

 

Another cup of tea.


René Magritte “The Lovers”

 

 歩きながらツイッターを開く。タイムラインを眺める。
「新宿のガードレールに座りながら空を見てる」というツイードが流れ、それを受けた徳島のコーヒーショップのオーナーが「今日の夜は流星群が見えるらしいですよ」とリプライを送っていた。埼玉では趣味がセックスの女の子が「流星群? ググります」とつぶやいた。北海道の主婦はそのつぶやきに、「こっちは雨です。今日最悪で。深呼吸」と返す。スマホを開いただけで会ったこともない人たちの生存確認ができる時代。知らない方がいいことも親指一つで知れてしまう時代にボクは生きている。
 ボヤいている人がいる。はしゃいでいる人、怒鳴っている人、甘えている人もいる。みんな広い世界を覗いて、片手に収まる窓を開けて満足しようとしている。ボクはときどき、急にその場所が息苦しくなる。見えない窮屈なルールを感じる。そして、決して自分と分かち合うことのできない並行世界に目を伏せたりする。それでも、みんな「ここにワタシはいる」と瞬いているのが見える。どんなにコミュニケーションが変わってもボクたちは「孤独」が怖いままなんだ。一等星から六等星まで、その光の強さ、大きさはそれぞれ違うけど、もっと速く、もっと深く、本当はみんなひとりぼっちが怖くて、どこかに繋がりたいと叫んでいるように感じた。

 円山町の坂の途中、神泉に近い場所に安さだけが取り柄のラブホテルがある。そこはかつてボクの唯一の安全地帯だった。
 あの部屋の中で、彼女と一緒に過ごしていた時は、世界にふたりぼっちだった。

『ボクたちはみんな大人になれなかった』 (燃え殻)

 

Another cup of tea.


Odilon Redon “Trauriger Aufstieg”

 

『ですが、終わる仕事なんてこの小さな会社にはありません。
区切りがどうとか、やりかけだと気持ちが悪いとか、集中が途切れるとか、そんなのただの気分なのに。すっきり終わって片付いたら仕事の腕前が上がった気持ちになるんですか。大嫌いな自分自身から褒められるとでも思っているのでしょうか。
終わる仕事なんてありません。
そんなものは、どこかの大企業の窓際にしかありません。
いいんです途中でやめて。途中で呼び出されたって途中で帰ったって、仕事なんだから。安心してください、あなたの美学なんてこの会社とは一ミリも関係ないんだから! 美学なんてものがあったら我が社にいることがおかしいんだから!

『御社のチャラ男』 絲山 秋子

 

Another cup of tea.

Michelangelo Buonarroti : Studi per la Sibilla libica

 

『朝は60キロあるローラーを牽きながら走り込む。日中は出稽古して回り、深夜になると裸になって庭の大石を抱え上げて筋肉を鍛え、さらに30キロの槌を両手に持ってぶんぶん振り回した。それが終わると、今度は御茶の葉を噛んでその苦みで自身を奮い立たせ、うなり声を上げて大木に体当たりを繰り返す。そして仕上げはその大木に帯を縛り付けて背負い投げ千本の打ち込み(投げ技のフォームを固めるためにフルパワーで投げる寸前まで技に入る柔道の練習法。通常二人一組になって人間相手に行う)である。
極限まで稽古すると隠されていた潜在能力が湧き出してきて再び立ち上がることができる―-。これを牛島は「生の極限は死」「死の極限は生」であるとし、死の極限を乗り越えた先の生、すなわち「死の極限は生」を武道家の理想の境地とした。
試合の前夜にはスッポンの肉を食して血をすすり、当日はマムシの粉を口に含んで試合場に上がる。
そして開始の合図と同時に突進して、マムシの臭い撒き散らしながら相手に躍りかかった。内股と背負い投げを得意としたが、本当の武器は寝技だった。』

『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』 増田 俊也